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尾形光琳


元禄期没落上層町人「雁金屋」の次男坊。
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生来の遊び好き、妻以外の女に生ませた子七人。
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代表作は晩年の「紅白梅図」屏風。
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尾形光琳が活躍した元禄時代といえば、近世町人社会の最初の興隆期であったが、光琳はその時代にあらたに台頭する新興町人ではなく、逆にその陰で没落して ゆく古い型の特権商人に属していた。
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光琳の生家、京都の高級呉服商「雁金屋」(かりがねや)もまたそのような古い型の特権御用商人に属していたのである。
光琳の曾祖父道柏、伯父宗伯、父宗謙の四代にわたる雁金屋の隆盛は、もっぱら掟君、徳川秀忠夫人、さらに東福門院とつづく当世最高の貴婦人たちの奢侈に よって支えられていた。
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延宝六(一六七八)年東福門院没年における半年間の雁金屋への支払金額は銀一五〇貰文(約一億五千万円)の巨額にのぼったといわれる。
しかし雁金屋はもっぱら東福門院の御用に頼っていたため、女院の死によって大きな打撃をうけた。
その頃から宗謙は当時の京都の富裕な大町人がしたように、大名貸しをはじめたが、その回収不能も加わって急速に斜陽化してゆく。
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光琳は、万治元(一六五八)年、尾形宗謙の次男として生まれた。はじめ名を惟富といい、通称を市之亟といったが三十代の初めに浩臨と改め、さらに光琳の字 にあてている。
他に方祝、青々、寂明などの名号があった。陶工として著名な乾山は五歳年下の弟である。
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長男の藤三郎は若年父宗謙の意にかなわず、勘当をうけたが、天和三(一六三八)年五月、許されて雁金屋の家督を相続している。
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光琳の父宗謙は、きわめて多趣味で光悦流の書家としてしられただけでなく、絵も巧みで能楽を愛して、子供に習わせたりした。
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父の感化で光琳はすでに一五歳のとき『花伝抄』や『装束付百二十番』を筆写し、早くから能に親しんでいた。
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貞享四(一六八七)年、三十歳のときに父から多額の遺産を得た光琳は、定まった家業もなく、もっぱら自由な生活を享楽して多彩な消費生活をはじめた。
とくに女性関係においては四十歳で結婚するまでの貞享四年から元禄八年までに四人の女性に四人の子を生ませ、結婚以後も元禄十三年には「さん」女に一子 を、「あや」女を愛人として二子を生ませている。
独身時代はしばしば島原で遊んだという記録もある。
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このような有様であったから宗謙没後、かなりの遺産を手にしたとはいえ、確かな収入の道もない光琳にとって、放らつな消費生活がいつまでも続けられるはず はなかった。
道具を入質したり借金がかさむ生活がつづき、家屋敷も処分するというくらしであった。
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光琳の時代京都の町家にあって絵を学ぶといえば狩野や土佐派から入るのが常道であった。
光琳の師は山本素軒という狩野派の画家であった。
現存する光琳画はほとんど「法橋光琳」の落款をもつもので、元禄十四(一七〇一)年法橋叙任後の四十歳代から五十九歳で没するまでの十八、九年が本格的な 作画活動の期間である。
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法橋叙任後間もない頃の作品として根津美術館蔵「燕子花図」屏風、「秋草図」屏風、「鵜船図」があげられる。
元禄十七年には、「中村内蔵助像」を描いている。
中村の家は慶長期以来の銀座商人であったが、元禄八年の勘定奉行萩原重秀らによる貨幣改鋳は金・銀座役人たちに巨利をもたらすことになり、元禄十二年銀座 年寄となった内蔵助もそれにあやかって、その豪奢な暮しが人々の目を驚かせるようになっていた。
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元禄十年代の光琳は、二条網平などの公家のほかに、有力なパトロンとして中村内蔵助を持っていた。内儀助をパトロンに制作に励んだとはいえ持ち前の派手好 みで出費がかさみ元禄十七年には家を抵当に金を借り、十月には江戸在番中の内儀助を追って江戸に下らなければならなくなっている。
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江戸に到着した光琳は銀座屋敷におちつき、内蔵助の口ききもあって当初は絵の注文も多く、深川の材木の豪商冬木屋に逗留して冬木小袖、(東京国立博物館蔵 「軟草模様描絵小袖」)を措いている。
しかし江戸での生活も期待していたほど甘くはなく、やむなく大名の酒井家の扶持をうける身となったが、すでに初老の光琳にとって宮仕えはいかにも気骨のお れる重荷であった。
江戸滞在中の作は畠山記念館蔵「つつじ図」「禊図」、メトロポリタン美術館蔵「波涛図」などがある。
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宝永六(一七〇九)年京都に帰った光琳は新町二乗下ルに新居を構えたが、京都帰住後没年享保元(一七一六)年までの七・八年が光琳晩年期である。
パトロン中村内蔵助の銀座追放など不慮の心労にわずらわされることもあったが、制作活動はそれまでにない活況をみせる。
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まずMOA美術館蔵「紅白梅図」屏風「孔雀立葵図」屏風、東京国立博物館蔵「槇図」屏風、メトロポリタン美術館蔵「八ツ橋図」屏風などがあり、宗達画模写 「風神宮神図」屏風、東京芸大蔵「槇楓図」屏風のほか、水墨あるいは淡彩の小品にも「維摩図」「竹虎図」「牡丹図」「布袋図」「宝船図」が残っている。
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光琳の晩年は大画面の遺作が多い。
中でも「紅白梅図」の紅梅と白梅は、まさに宗達の風神、雷神の変身といえる。
二つの対立するものを含みながら、それらを厳しく統一した緊張感にみちている。
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紅白梅の幹や枝の線と水辺の曲線の対立・照応には、光琳の長い造形的追求の到達点が示されているようだ。
この絵をみていると光琳の一生は、紅白梅図を描くためにあったといってよい。
この傑作は、元禄期の美術を代表するとともに、近代画にも通ずるものを持ち、最も日本的であると同時に世界性をもっているものであろう。
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光琳は享保元(一七一六)年六月二日、五十九歳で没した。
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